第3番 洞松寺
洞松寺
 矢掛町の南端、遙照山のふもと、深い緑に囲まれた舟木谷に洞松寺はある。舟木山の山号はこの地が神功皇后の朝鮮出兵に関して、兵船のための舟材を献じたことに由来し、「洞松の司」という地名をうけたという。  
 古代天智天皇の行幸の時南都興福寺の光照菩薩をまつり、仏閣を建立し、舟木山洞松司院として開創され、のちに和気氏により、七堂伽藍が整備され三十六坊をもつに至った。  
 安徳天皇臨幸のとき、船破却し、舟材を献じ洞松司院を洞松寺と称すと伝えられる。
 中世期、寺運衰退していたが、室町期末、喜山性讃禅師は(大本山総持寺百世)応永十九年(1412)、猿掛城主庄駿河守の帰依をうけ、洞松寺を中興開山し、師恕仲天 禅師を勧請開山として、自ら第二世となった。布教数年にして、四方より修行僧があつまり大道場となった(喜山性讃・恕仲天 頂像は岡山県指定重要文化財)
 また、五世崇芝性岱和尚より輪番住持制が確立され(末山・門葉の住職が順次交代し、住職争いや、門葉の分裂をさけ本寺の発展を期する制度)江戸時代の明暦年間(1656〜58)まで約二百年間に八十世に及んでいる。この間名僧があいつぎ住職し、四人の住職が禅師号を受けている。
1:佛通活性禅師(九世)2:正覚大鑑禅師(十五世)
3:慈光禅師(五十七世)4:佛心円明禅師(六十世)  この間多くの門葉寺院が開創され、直末四十二ヶ寺、門葉寺院壱千余ヶ寺となり喜山派の派頭寺院となった  中世古文書五十余通は岡山県指定重要文化財となっている。伽藍は二ノ門・山門・開山堂を直線に配置し庫裏・坐禅堂、衆寮、接賓がとりかこみ一円相をえがく、近世地方禅院の特色をよく伝えている。
 第十四世賞山覚了東堂和尚の葬儀は天明二年(1782)七月十一日に行われ、多くの隨喜僧の中「に大愚上座」の記事があり、円通寺修行時代の良寛の姿を彷彿とさせる記録がある。